時間はなく、忙しくもない

人生最大級に時間がない。朝から子供の相手して、仕事して、家事して、仕事して、寝る。以上。みたいな毎日。一方で「忙しさ」は特に感じない。

忙しさというのはたぶん、予期しない問題や割り込みが起きて、もともとの予定が乱れてしまったときに感じるのだろう。課外活動ゼロの現実が期待値に織り込まれると、何もできないのは別に予定通り。だから忙しいとは思わない。ただ時間がないだけで。

時間がないとも実のところ感じておらず、というのは手持ちの時間 (24h/day) は変わっていない。単に優先度順にやることを積んでいくと課外活動が予算からはみ出てしまうだけ。「時間がない」というのはたぶん、気がついたら一日が終わっているみたいな時間が「どこかに行ってしまう」感覚に紐付いているのだろう。自分は時間がどこにいったかはわかっているので、そういう「溶けてしまう」ような時間のなさは感じない。「課外活動の時間がない」とは感じるが、あるわけがない。だって childcare してるんだから。

仕事の時間が所定の労働時間に届かない事実には frustration や pain がある。これは究極的には失業の恐れである。つまり childcare という目先の obligation と、金を稼ぐという前提の obligation が衝突している。課外活動も潜在的には将来の雇用に寄与するはずだから失われることに恐れはあるはずだが、その寄与の不透明さは目先の obligation にかき消されている。


一方で、これでいいのかと不安はある。疫病は仕方ないが、一方で「仕方なさ」を理由に必要以上にいろいろなことを諦めすぎてはいないか。もうちょっと無理していろいろやった方がよくはないか。「忙しさ」を感じるくらいまで日常にストレスをかけてもいいのでは?

それをやりたくない理由はいくつもある。睡眠を削るなりなんらかの形で時間をちょろまかそうとすると、他のことにしわ寄せるのが目に見えている。それは仕事の成果が減る、ということかもしれないし、妻子の期限が悪くなり関係を損ねることかもしれない。「しれない」というか、このどちらも確実に起こるのが目に見えている。


最近、睡眠を削るという行為は一体なんなのだろうなとたまに考える。いいことなくね?みたいな。ただし場合によっては睡眠を削りたい人もいるのだろうと想像はできた。

  • 昼の仕事が世を忍ぶ仮の姿である場合。昼はウェイターだがよるは歌手みたいな。昼の仕事がどうでもいいなら睡眠を削って自分の時間を確保する意味はある。
  • このバリエーションとして、自分にとって重要な趣味が脳のフル機能を必要としない場合。たとえばテレビシリーズを binge するみたいのは、割と寝不足でも気にせずやられているように見える。

自分はこれらには該当していないので、睡眠時間は削れない。ただまあ、睡眠削って眠気と戦いながら生きることに意味のある人生もあるにはあるのだろう。


話題がそれたが、睡眠を削れないなら何を削るべきか。

ニュースかなあ。ここ二ヶ月は世の動向が割と actionable な consequence を持っている場合もあったので熱心にニュースを読んできたが、もうそろそろいいかなとも思う。ほんとにいいのはわからないが、ニュースをやめるときには常についてまわる不安なのでこれは「やめてみる」が正解に思える・・・平時であれば。今はどうかねえ。まあいいんじゃね、という気はしているが、やけくそだろうか。

仕事の時間にもうちょっと紛れ込ませる。これも望ましくはないが、ちょっとくらいいかなと思う (Towards (A Bit) More Procrastination)。

相変わらず意味のあることができる気はしないが、小さなところからはじめていくほかなさそう。


課外活動以外にも考えることはある気がして、それをさしおいて自分のやりたいことをやっていいのかという逡巡もある。たとえば子の home schooling をどのように執り行うべきか、きちんと考えたほうがいいのではないか。こういう後ろめたさもなにかをやる妨げになっている。

課外活動にせよこうした問題について考えるにせよ考えていることを書き出して整理する必要があり、そのために今は細かい時間を縫って画面なり紙なりと向かい合う時間がほしい。やはりニュースはしばらくおやすみだな。