On 20-Percent

20% プロジェクトというアイデアは、様々な人が様々な持論を支持する論拠に使われている。ただその理解が自分とはだいぶ違うように感じるのでここに個人的な見立てを書いてみる。

勤務先における 20% プロジェクトの由来については諸説あり、様々な corporate folklore を形成している(つまり決定的な証拠はない)。自分が好きなバージョンはこんなものだ: ある日、エンジニア部門のトップから社員たちにメールが届いた。「みな色々なプロジェクトに首を突っ込んで楽しくやってるみたいだけれど、本題のプロジェクトが進まないのは困るから他のとこに首をつっこむのは 20% <まで> にしといてね」

このバージョンは、自分が勤務先に対して抱いている文化感を反映している。つまり、

  • 良いプログラマは制度や仕事がどうであれ隙をみて面白いことをやろうとする。
  • マネージメントは雑で、細かいことは言わない。

こういう価値観というのは、良しにつけ悪しきにつけ色々と consequence がある。たとえば Disagree and Commit みたいのと(必ずしも矛盾はしないにせよ)相性が悪そうなのがわかると思う。

この視点でみると、マネジメントが 20% 制度を推奨するだとか 20% の成果も人事考課に組み込まれるなんていう主張は的外れに感じてしまう。もちろんタチの悪いマネージャの下についてしまった人が「権利としての 20%」を勝ち取るために制度が応援してあげるのはいいとおもうけれど、そもそもコソコソ勝手に何かするヒマがないほどキチキチに管理されている時点で cultural norm からは外れている・・・と思う。

つまりゆるくて雑でボトムアップなのが勤務先の良さだと思うのだよね。そこに 20% というラベルを付けて hiring のだしにするのはよいとおもうけれども、 それを 20% project という「制度のおかげで」なにか面白いことが起こると解釈されるとソワソワしてしまう。制度に頼るようになったらおわりだわ。


こうした文化や価値観は、会社や製品が巨大化するにつれその効力を失い、むしろ組織の足を引っ張ることすらある。それはよくないことで、正されるべきなのだろうか。わからない。似たような好き勝手文化を持つ DEC は滅び、正した IBM は生き延びた。でもこんなのは anec-data に過ぎない。

組織が成熟するなか, 文化的シンボルとしての 20% が制度としての 20% に姿を変えることはあるのだろうか。自分はそれを全く望んでいないけれども、他のオプションがよりマシとも限らないし、どうかね。


続きを書いた。