More On 20-Percent

On 20-Percent を読んだ知り合いから反応があった。自分の考えをもう少し整理し、「20パーセント制度」の語りをめぐる自分の中のわだかまりを三つの論点にまとめてみる。

ひとつ目は、勤務先の中の人の語りは盛り過ぎではないかということ。20パーセント制度の成功例としてよく Gmail が引き合いに出される。Gmail はユーザ数が 1B を超える超大成功製品である。そんな成功を生んだ制度ならたしかに自慢の甲斐もある。しかしこの主張の信憑性は薄い。Paul Buchheit はインタビューの中でこう話している:

[Larry] and Wayne Rosing, who was the VP of Engineering at the time, would sit down with engineers and give them projects. When they sat down with me they said, “we want you to build an email something.” That was all the specification I got! So I went off to build something with email, which became Gmail.

自発的でも 20 パーセントでもなく社長直々のフルタイムプロジェクトじゃん?Gmail に限らず、同じ規模の主要製品の中で 20 パーセント制度から生まれたものは無いのではなかろうか。

20 パーセント制度が何も生んでいないとはいわない。いちいち例はあげないけれど、沢山の面白い、良いプロジェクトの起点になったとは思う。でも Gmail が引き合いに出されるたび嘘くさくて白けてしまう。

20 パーセント制度の成功例をいちいち名指ししたくない理由は、ふたつ目の論点と関係がある。これは前に書いたことの繰り返しだが、20パーセント制度はボトムアップで勝手になんかやる文化の現れに過ぎないと自分は信じていて、制度ではなくその文化を大切にしてほしい。

二割とかケチくさいことをいわず、プログラマは自分でやると決めたプロジェクトにフルタイムで取り組むことができる・・・こともある。実力、実績やカルマ、チームの勢い、上司の性格、プロジェクト自体の説得力と野心度、主要製品との相性・・・こうした変数によって、獲得できる自立性には大きなばらつきがある。でも当事者たるプログラマが「こういうのがあるといいと思うのでやります」と言い出し、上司などが「そんじゃよろしく」とプロジェクトが始まる(あるいは上司に黙ってこっそり始まる)のはそこそこ普通の現象。Gmail の逸話にしたって、上司がいってきたのは「メール関係でなんかやってよ」だけだから勝手にやったと Buchheit はいう。このマネジメントの雑さ、当事者の自由度は勤務先に対する自分の文化的イメージと合致するし、大企業になった今も面影を残していると思う。

別の例: Chrome の話。Chrome をはじめたのは Ben Goodger や Darin Fisher といった Mozilla 出身者だが、彼らは別に Chrome をつくるためではなく Firefox に検索っぽい機能を入れるために雇われた。けれどしばらく働くうちに結局ブラウザが作りたくなり、上司に「ブラウザやります」といったら「やろうやろう」と盛り上がりプロジェクトが始まったと言い伝えられている・・・というか件の上司が他の部門に異動する際の小さな集まりで当人から聞いたのでここで言い伝えさせていただきます。つまり Chrome は少なくとも当初は戦略的製品とかではなく、当事者が自発的に始めたフルタイムのプロジェクトである。大小様々な規模のプロジェクトが似たような感じではじまり、様々な成功(や失敗)を収めたことは想像に難くないし、実際いくつも目にしている。

各人が実力や実績に相応しい自立性を持てる。そして「実力や実績」には必ずしも組織上の権力が伴う必要はない。そうした自立性を当然のものとみなす空気がある。制度としてすべての社員に最低限の自立性を与える20パーセントより、自分は雑さの空気を信じている。

空気は繊細なものだから、環境の変化に晒され失われることもあるだろう。だからこそ単純な制度に卑小化されたくない。「制度としての自由」と「上司にいわれたことをやる」の間にある豊穣をわかりやすいストーリーで握りつぶさないでほしい。

みっつ目は完全に個人的な話。自分は、少なくともある時期まではかなり高い autonomy budget を与えられていたと思う。勢いのあるチーム、放任主義のマネージャ、外的要因のせいで進みの遅いプロジェクト。妻子なし。本業の外で自分のやりたいことに好きなだけ時間を使える条件が揃っていたし、実際それなりに時間を使っていた。にも関わらず、大した成果は何もなかった。やがてこの autonomy budget をダラダラと浪費する働き方に適応し、非生産的な日々を過ごすようになった。この話は前にも少し書いた

自由を与えられながら何もできなかった現実は自分に都合が悪いので、無意識に色々言い訳したくなる。その一環で20パーセント制度にもケチをつけたくなる。別に自由な文化からイノベーションとか出てないでしょ成功した製品みんな買収でしょ、とかシニカルな態度を取りたくなる。

ボトムアップで自律的な文化に負の側面があるのは事実だと思うけれど、自分がそれを生かせなかったからといって必要以上に否定的になるのは我ながらよくない。

でもインターネットで20パーセント制度の話題をみかけると「なにもできなかった自分」という現実が視界に入り、シニカルさが顔をだしてしまう。愛社精神とシニシズムが関心を求めそれぞれ声を上げる。自意識の病。

この「20パーセント病」が発症したらほんとうは話題から距離を置くのがよいのだろう。それに自分のようなボンクラより、成功譚の当事者から話を聞きたいよねえ。