Why Blog

Blog の話を書いたついでに。

Social media 全盛の時代にプログラマがブログを書く意味はあるのだろうか。もっというと、それは職業的な役に立つのか。そして役に立てたいならどういう前提で書くのが良いのだろうか。

この手の議論では、なんでも知見を書いておくと検索経由で誰かの役に立つかもしれないという話がよくある。それは一理あるが、人の視線を気にするのは slippery slope だとも思う。

まずひと目を気にしだすと、たとえば social media で buzz りたい、みたいな誘惑に弱くなる。Social media での人気は内容の有用性とは必ずしも比例しない。人目を求めると程度の差はあれ延焼性を高めたり clickbaity になりがち。そういう記事ばかり書いている世の中の冴えない "blogger" たちも、当人らが特別ダメな人間だというよりメディアの構造があの人たちを駄目にしてしまったと個人的には思っている。仕事でもないのにプログラマがそんな構造的リスクに足を突っ込む必要はない。


もう一つ、人の視線を気にすると自分を実際以上の良いプログラマに見せたい誘惑もうまれる。これは炎上の重力とは違うけれど humbleness を欠く。ハッタリ志向になるというか。(そして自分はむかし学生の頃「ハッタリ志向プログラミング」という記事を書いていたのを思い出した。やばい。)

なの人目の誘惑からは距離を置き、自分の興味や、可能な範囲で仕事の発見、思ったことなどを、ほそぼそと書き続けるのが良い気がする。人気は出ないかもしれないけれど、長くやるほど自分の(職業的)パーソナリティがにじみ出ていくはず。

エラくなる、営業活動など、職業上の要請で歓心的、権威的振る舞いを迫られることもあるっぽい。そういう立場の人は仕方ないけど、近づかないで済むならそのほうがよい。


Blog に期待される職業的な利得のひとつに self branding がある。つまり blog は新しい職業的な関係を持つ際に due diligence の材料になる。会社員にとって、これは要するに転職するとき相手に読まれるということ。あるいは人探しをしている人の目に止まるということ。

Self-branding のために売名やハッタリは必要ないのか。ないと思いたい。

多くの企業は、かならずしもすごいプログラマを求めていない。凄腕に越したことはないけれど、そう簡単にスーパースターを雇えるとは思ってない。一方ですごくダメなプログラマ/会社員はなんとしても避けたいと思っている。つまり雇用のための self branding では、すごくダメでないことがはっきり示せればとりあえず大丈夫と言える。

求人/求職は不完全情報のゲームで、お互いに相手の情報が足りてない。だから雇う側は安全のため期待値のマージンをとって採用する。つまり相手の素性がわからいぶん必要以上に高いバーをセットしている。情報を開示すればするほど相手は安心し、マージンは小さくなる。

長く続ける燃えてないブログは、個人の情報開示として優れている。GitHub にコードを置くのも同じ理由で意味がある。ただ2つは開示するものが違う。GitHub はプログラミング能力を示し、Blog は(プログラマとしての)人となりを示す。雇う側にとってはどっちも大事。


人となりを伝える意義は雇用にかぎらず、オンラインで知り合いを作るのも助けてくれる。ソーシャルメディアやオフラインで誰かとの接点がうまれたとき、ブログはその繋がりを強くしてくれる。雇用よりこっちの方が大切な人は多いだろう。

人となりを伝えるにあたり、関心/PV への誘惑は悪い方向に働く。オンラインで人目を集める発言パターンは多くが露悪的だし、そうでなくてもステレオタイプの力に負けパーソナリティを隠してしまう。(プログラマたちが書く退職エントリの紋切り型ぶりを見よ。)

ところで求職にせよ社交にせよ、ブログのかわりにソーシャルメディアではだめなのか。大半の人は併用しているだろう。ブログでしかできないことも、ソーシャルメディアでしけできないこともあるから両方やるのが良いのだろうね。そういって多くの人々は結局ブログを書かなくなるのだけれど…。


ブログのもう一つの側面である、考える手段としての文章書き。個人的には割と重く見ている: 物事の理解を助けるには、そのアイデアや思考過程を書き出すとよい。

考え事のテキストはいつも完成した文章である必要はなく、箇条書きとかでも良い。ただし他人に伝える必要のあるアイデアは、箇条書き以上の整合性があると望ましい。つまりそれなりの文章にしておくとよい。

他人に伝えたいアイデアとは何か。たとえば新しいライブラリを導入したい。それはどこがいいのか。チームのプロセスを変えたい。なぜか、どう変えたいのか。あるいはもっとカジュアルに、なにか面白いものを見つけた。どう面白いのか。など。

こういうコミュニケーションを準備なしにうまくできるのは、一部の頭脳明晰な人だけ。準備しないと、ふつうはしどろもどろのしらけた話になる。講演の原稿と同じ。

そうしたアイデア伝達の準備としてブログを書くのは悪くない。自分が読んで腑に落ちる形で考えを言語化できたなら、人と話す準備は整う。

あるアイデアに canonical なテキスト(たとえば教科書、ウェブサイト)があるからといって、自分の言葉をひっこめる必要はない。語り手や聞き手にあわせた言葉があるはずだから。

ここでも関心/PVの意識は悪い方に働く。誰かがすで書いた話を書き直しても仕方ない、むしろパクリ扱いされる…とか。身近な対話の下地づくりにとって、そういう意識は邪魔にしかならない。

読者を意識するのはいい。ただしその読者は、自分がアイデアを伝えたい相手、たとえばチームメイトや友人。ランダムなウェブの住人に響くかどうかは副次的なことだ。


多くの読者に読まれようとがんばって文章を書くのは、別にそれはそれで良いと思う。でも、多くの読者を持つ「よい blogger」であるために必要な努力は、良いプログラマであるための頑張りとは関係ない。

良いプログラマが面白い文章を書くことはある。でもその文章の面白さはプログラマとしての実力のおこぼれであって、逆ではないよね。


このブログは以上の方針をどれだけ守っているか。道半ばというところ。自分は関心経済に魂の結構な割合を売り渡してしまった。買い戻すには時間がかかる。

そして関心経済から完全に身を引くべきかというと、それも違う。少なくともインターネットの上にとどまりたいなら。議決権は自分の手元に残しておこうね(それには自覚的なふるまいが必要で、そのあり方の一つを提案したい)という話です。

より根本的に、何か言いたいという個人の欲求をみたしてくれるメディアとしての blog というのもあり、それはそれで自分は好きです。