貸しの無さ

インドに住むフェミニストのアメリカ人が書いた子育ての本(ひどい要約)"Women's Work" の後半、著者は取材旅行のためはじめて家を空けてたびに出る。夫のために子育てカンペなどを整理しながら「なぜこんなことを」と理不尽に感じ、しかし旅先では「自分はもっと早くからこうすればよかった」とある種の達成感と開放感に浸る。そんな下りがある。

これを読み、自分の奥様にも家を空けて外出してほしいなと思う。何度か水を向けているだが、まったく進展しない。自分にとっても目先ではやや面倒が増えることなので頑張って urge しつづける意欲もなく立ち消えになるのを繰り返している。でも、たぶんそこは頑張って繰り返し背中を押すべきなのだろう。

自分が出張に感じる強い抵抗は、結局そこで生まれる借りを返せる見込みのなさに根がある、気がする。自分はただでさえ、たとえば podcast の録音や出張者とダベる外食などで帰宅を遅らせ、奥様に負担をかけている。つまり細々とした貸しが積もっている。しかしそれを返すことができない。返せない借金がある身で更にでかい借金(出張)をするのは気が重いので出張から逃げてしまうが、これは明らかにキャリアを損ねている。友達と遊びに行くとかも同じ理由で難しい。つまり自分が必要に応じて出張とかをするためには、奥様に旅行とかに行ってもらう必要があるのである。別にいいよとかいうけど、借金踏み倒すしか選択肢がない倫理的イヤさが伝わってない。

なんとなく mortgage の利息を決めるクレジットスコアを稼ぐために車のローンを組む、みたいな理不尽さを感じないではないが、そういう金融的メタファはさておきちょっと遊んで息抜きしたり人間関係を回復したり自分のことを考えるまとまった時間をとったりしてくれた方が関係性として sustainable に思える。現状には deadlock 的息苦しさがある。信頼を勝ち得てないのではという指摘も有りうるが、別に一通り子の世話をできることはわかっているのだからその点で自分にできることはあまりない。子と自分を信用して出かけてもらうよう強く促す必要があるのだろう。

ロジスティクスの問題として、家に車が一台しかないというのがある。自分は緊急時のため、あるいは平日だったら drop-off/pick-up のために車がいる。奥様が外出に車を使いたいとなると、どちらかが借りるなりタクシーなりで妥協しないといけない。借りた車で長距離でかけなくないという旅行者の思惑と、慣れない車に子供を乗せるところで苦労したくないという留守番者の思惑が食い違う。車くらい借りてくれよ・・・といいたいが、もしそれが本当に blocker なのだとしたら・・・自分が借りた車で送迎なりするのかねえ。まあいいけどロジスティクス的な不自由さはずいぶん増してしまう。が、そういう細部でフリーズしてないでガっと話を進める太っ腹さが求められているのだろう。 車をもう一台買う…のはあまり考えたくない。

もっと無責任に子供おいて遊び行くねじゃーねーとかいって出かけちゃってくれるとある意味ラクなのだが・・・というなんとも歪んだ悩み。