A Long Reflection 2019 (4) - Attention and Citizenship

もくじ。

少し脇道に逸れ、インターネット芸人活動について。これについては過去に何度か書いている(1, 2, 3, 4)。自分はある時期までは無自覚な attention addict であり、それが自分のキャリアを損ねたと思っていた。その反動で、一旦は原理主義的な意見に至った。すなわち、関心/承認欲求のためにオンライン活動をするとプログラマとしてのキャリアを損ねる。それよりは実力の足しになるようなこと・・・たとえばコードを書くとか・・・をするとよい。その結果引き起こされる関心だけが本物の通貨で、あとは贋金である。

これはあまりに draconian で、関心/露出/知名度にはキャリア上の利点もある。自分はそれを享受している。だからその「偽物らしさ」に自覚的であれば、必要悪のツールとして芸人になるのもよい。原理主義化したあとは、そう考え直しもした。

「自覚的である」ことはそれなりに難しい。とはいえ関心への飢餓感が孕む危険は主に聴衆側の成熟によってある程度は理解が進んだ。たとえば「炎上芸」みたいな語彙は昔はなかった。今は、プログラマはともかくウェブで悪目立ちする一部の「ブロガー」を人々は失笑しているし、YouTube personalities の burnouts などもしばしば報道されている。

そうした芸人としての罠がオンラインで活動するプログラマにもあてはまることを理解した上で、趣味としての芸を楽しむのは別にいいんじゃないか。最近はそう思っている。プロ芸人でない自分たちのようなプログラマにとって関心の病を自覚するのは案外むずかしいこともあるが・・・。

依存症の比喩からこう考えることもある:自分は依存症を通じて脳が変質したからアル中やヤク中がそうであるように依存対象すなわち関心からは自由になれない。だから諦めと受容を通じ距離をおいて付き合っていくしかない。

外国ぐらしをするようになり、自分にとって日本語圏でのアテンションの直接的な価値は下がった。結果として見栄に引きずられず芸人活動の趣味性を楽しめるようになったのはよかった。これは Podcast で特に顕著だったとおもう。いまでもアテンションは気になるが、前よりはうまく距離を置けている気がする。出羽の守化がさほど進行せずにすんでいる(と信じている)のは、解毒の成果とみることもできるし単に加齢のせいかもしれない。


自分の社会的アイデンティティを考えると、また違った見方もある。自分はインターネット「芸人」である以前にインターネットの「住人」で、自分の人間関係にはウェブを通じて作られたものが沢山ある。オフラインが起点の知り合いでも、互いがオンラインに書いたものを通じ理解しあった関係もある。発言の場としてのインターネットはそうした人間関係を育む土壌であり自己表現の舞台なのだから、芸人だの関心だのと腐してばかりはフェアでない。相応の重要度と敬意を持って接するべきではないか。有り体に言えば、自分はインターネットと一緒に人間関係を放棄していないか。

これらの矛盾する見解は、それぞれ正しいと自分は思っている。ただ互いに矛盾しているので歯切れの良さはない。まあ、仕方ない。 これからも試行錯誤が続くだろう。