感謝祭の夜に

旅先の宿で夜中に目が覚めた。頭をよぎったことを書く。


しばらく前から自分のキャリアが下り坂に入った手応えがある。職業的なピークは過ぎて、あとは何かが下がっていくだけなのだというぼんやりとした重量加速度。

学生時代に人生のピークがあった人物が、哀れさのステレオタイプとして世の中の物語に時々登場する。自分がそんな風でなくて良かったとたまに思う。人生の楽しい瞬間は会社員になってからの方が多かった。退屈な学生時代だっただけかもしれないが。

もしピークが過ぎたのだとしたら、いよいよ自分は楽しかった過去を惜しむばかりの哀れなステレオタイプに成り下がったのだろうか。だとしたらピークはどこかと振り返る。しかしこれといった山場は見当たらない。一方で道が平坦だったというのにも違和感がある。

気分だけでいうと、確かにピークはあった。一つは外資系の会社に雇われてオープンソースの仕事をはじめた瞬間。もう一つは外国に引っ越した瞬間。でもこれを人生の、あるいはキャリアのピークと呼ぶには抵抗がある。どちらの瞬間でも何かを成し遂げてはいないから。

何かを成し遂げた瞬間、たとえばあるソフトウェアの大きな機能を世に送り出した実績はあるか。おそらく HTML Imports はそれに当たるだろうが、これはかけた時間と労が大きいだけでとても成功と呼べない。Bittersweet な思い出くらいがせいぜい。学生時代のステレオタイプに比喩を求めるなら、なんだろう、学年一の美女とデートした(が何も起きなかった)みたいな感じだろうか。したことないからわからないけど。

つまり、自分の人生…というと大げさすぎる…職業人生に、特にピークはなかった。いくつか小さな谷があったから平坦ではない。でも山はなかった。残念だけれど、谷で足を踏み外し崖から落ちてないことを感謝するのがフェアな態度にも思える。感謝祭だし。今夜は。目の前の下り坂もあまり急じゃないことを望む。

気分的なピークを振り返る。求職相手から the offer letter を受け取った日、あるいはプロジェクトから the open source reviewer の権利を受け取った日。転勤願や永住権の認可が降りた日。何も成し遂げていないそれらの夜に頂点を迎えたものは何か。

可能性。あるいは期待。この先の人生で何かすごいことが起こるかもしれないという感覚を強く感じたのがたぶんこうした瞬間だった。けれどその期待を実現することはできなかった、というとあまりに悲観的なので、未だできていないと書いておこう。

けれど「何かすごいこと」なんておこるのだろうか。そんな形のない質量だけの願望を、人は叶えることができるのか。学年一の美女とデートしたい十代ですらもっとマシな見通しを持っている気がする。自分は可能性や期待ばかり追いかけて、その先に何があるかをよく考えなかった。「何かすごいこと」をしようと思っていたのかすら疑わしい。キラキラしたものを追いかけていただけじゃないか。だから大きな可能性を掴んだとき、その奥にあるものを引き寄せることができなかった。きっとそうだよな。

可能性の向こうのことなんて未だにわからないから羨望こそあれ後悔はしようがない。大きな成果を上げている同世代と手のひらにある自分の可能性の燃えかすを見比べると不甲斐なさから多少の失望はあるが、今はまずその可能性たちをささやかに弔うのが筋にも思える。会えて良かったよ、ありがとう、形にできなくてごめんなと。異国の盆は遠にすぎ、感謝祭だけど。今夜は。