画面の不透明さ

ソーシャルな場面、特に家庭で、ラップトップなりスマホなりの画面を眺めているのは感じが悪い。自分も食事中にスマホをされるのは不愉快なので家では夫婦とも食卓でのスマホはナシとしている。

一方、たとえば食後にソファなりベッドなりで画面を眺めているのはどうだろう。人にもよるだろうけれど、自分の感覚だとこれは食事中ほど感じはわるくない。一方で、子供がいるとやりにくいし、実際自分たちはあまりやっていない。しかし、結果として子供の目を盗んで画面を見るという本末転倒なことがしばしば起こる。なんか不毛。

いま子に画面を見せたくないのは、それが過剰に引力を持っているから。一旦画面に気を取られると、たとえば何らかの動画を見せろと tantrum が起こる。一旦見せても次々に見たがりきびしい。この問題は、ある程度は時間が解決すると思っている。

もう一つの問題は子に限ったことではなく、画面というものが持つ awkwardness に由来している。つまり、画面の向こうで何が起きているのかが外からわからない。

食卓の例にもどると、たとえば食事中でもちょっと調べものをしたいことはある。一方で、調べもののついでにソーシャルメディアなどをひやかすことも可能だし、実際に寄り道はおこる。画面が見えない事実も寄り道を招きがち。その寄り道はしないでほしいし、自分でもしたくない。画面が外から見えないとその不信感は払拭できない。

食卓に限ると、調べものとかはテーブルに電話を置いて作業しようと決めている。画面を隠さない。こうすると、少なくとも夫婦間での問題は解決する。地図を見るとか買い物アイテムを足すとか、別に他人に見られてもいいし。

ソファやベッドは同じ方法が使えない。こうした時間にソーシャルメディアなり何なりを眺めるのは何も悪いことではない。ただ問題が無いわけでもない。相手に話しかけたい時、あるいは話しかけられても構わないときに、良いシグナルがない。つまり画面を見ている誰かはいま「忙しい」のだろうか。それともどちらかというと「ヒマをつぶしている」のだろうか?ラップトップや電話の背中はこうした問いに答えてくれない。

ラップトップや電話のない世界では同じ場面で何が起こるか?テレビやテレビゲームは、そこで何が起きているのか筒抜け。ポータブルゲーム機は、すくなくともゲームをしていることはわかる。紙の本や雑誌を読んでいるなら、本や雑誌のタイトルはわかる。雑誌は、どの記事をよんでいるかまではわからない。ノートに日記を書く。日記を書いていることはわかる。何を書いているかは見えない。ノートと教科書をだして勉強をしている。科目くらいはわかる。電話で誰かと話す。筒抜け。

ここには何らかのシグナルがある。ゲームをしているなら、その場で話しかけてもムダだろうが(ゲームに集中しているから)、一方でそのラウンドがおわったら用事があると伝えることはできる。電話もおなじ。本や雑誌を読んでいるならたぶん話しかけて問題ない。日記も、たぶんだいじょうぶ。勉強は、そっとしておいてあげたい気もする。

プライバシーも、一定程度はある。つまり(少なくとも家族なら)日記を覗き込むんだりはしない。読んでいる雑誌を覗き込むのは、たぶん構わない。他人に知られてくない読みものは、そういう場面に持ち込まない。仕事の電話も席をはずす。

スクリーンにはこうした nuanced  なプライバシーやシグナルがない。それが awkwardness につながっている。

不透明でない画面の可能性

少し意外な発見として、デスクトップの画面は場合によってはシグナルがある。具体的には living rooms にデスクトップを設置すると画面はまわりに筒抜け。職場での画面も同じ性質を持っている。デスクトップを使っていたり、ラップトップを大きなモニタにつないでいると、作業はまわりに筒抜け。これはある種の制約としてもよく機能する: 仕事中あんましソーシャルメディアとかみてんなよ。まったく気にしない強い人もいるが、すくなくとも Facebook やってる同僚に仕事の話で割り込むのに気後れはない。

Kindle のデバイスも少し似たようなところがある、つまりすくなくとも本を読んでいるであろうことはわかる。カバーつきの本くらいの可視性。

スクリーンを使いつつ、適切な可視性で家族にシグナルを伝えることはできないものか。つまり、つかっているアプリなりみているウェブサイトくらいは外から見えてほしいんだけど、見せられないんですかね?

富豪的な解決は用途別にデバイスをわけること。これはインターネットにつながるデバイスとそうでないデバイスをわける、みたいな断線の仲間だけど目的は違う。機能するかもしれないが、そのためにはメインのデバイスでソーシャルをしない決断が必要で、それは自分はともかく他人(奥様)に強いるのは難しそう。

Surveillance dashboard をつくる。ブラウザ拡張や強い権限のあるアプリで、いまつかっているアプリやみているサイトを検出のうえなんらかの見える場所に表示する。おおがかり。あと iPhone 相手だと使えない。 ついでに寝室には surveillance dashboard 置きたくない。十分に非侵入的かつコンパクトで持ち歩けるデザインなら話は別だが・・・。

理想的には PC なり電話なりの背面に小さい画面があって、そこにアプリのアイコンなりサイトの favicon を出せるといいんだけど。そういう時代は来ないだろうなあ。

紙を選ぶ

より現実的に、画面でなくていいものを画面から追い出し、シグナルのあるメディアを受け入れることもできる。要するに紙の雑誌を買う。紙の本を買う。紙のノートで日記をつけるなど。

紙のメディアは「かさばる」という大きな欠点があるわけだが、その「かさ」がまさにシグナルとして機能する事実は無視できない。いわゆる affordance というやつ。本の affordance がどれだけ重要かは場合によるが、それが本当に priority なら紙の本を買うのはアリだと思う。ただ失うものも多いので悩ましい。

そんな理由で最近はためしに紙の本を買ってみている。でも技術書は厳しいね。でかすぎ。一方、たとえば Modern Operating Systems は表紙が賑やかで楽しいらしく子が興味を示す(まさかこのダサい表紙にそんな魅力があるとは)し、ヘネパタを読んでいる時に子が寄ってきたら裏表紙をみせて「これがヘネさん、これがパタさんだよー」とかいう話ができる。などなど affordance の力は感じている。

ただ長期的には family-aware で less awkward な media consumption device に出てきてほしいなあ。Apple と Amazon に期待。ていうか Kindle DX 帰ってきて!愛してた!


追記

その後も実現方法をぼんやり考えていたが、子供を画面に近づけたくないうちは無意味なアイデアに思えてきた。そのフェーズが終わり子供に画面、というか画面つきデバイスを渡すようになったら surveillance dashboard を作っていいかもしれない。