教える対価
前に書いたことの続き。
以下では「人に教える」という行為のネガティブな話を色々書くわけだけれど、だから教えるのが良くない、という話ではない点に留意されたし。物事には多かれ少なかれ対価があり、この文章はその対価に話題を絞っているだけ。総体として教えるのがよくないとは特に思わない。自分は機会がないからやってないけれどね。
前の文章では教えないことの対価が言語化の不足だと書いたが、教えることの対価があるとすればそれはまず言語化の過剰、あるいは望ましくない言語化である。
人に何かをおしえるとき、特に企業のトレーニングのような実務的な文脈ではおおきく二種類のバイアスが入り込みがちだと思う。
ひとつめは単純化。人に何かを教える時は、わかりやすさのために物事のニュアンスを落として説明することが多い。アイデアの限界や例外は、しばしば省かれる。教わる側はなにもしらない状態から単純化して理解した状態になるからプラスだけれど、教える側はどうだろう。本来もっていたニュアンスを落とした言語化をすることで、当人のメンタルモデルからもそうしたニュアンスが失われることはないだろうか。ニュアンスは言語化されず単純な部分だけが言語化されたら、その単純さは reinforce されないか。
ふたつめのバイアスは overrating. 説明されるアイデアが過剰な「正しさ」を与えられてしまいがち。これはひとつ目の単純化の特殊ケースとも言える。どんなアイデアやプラクティスも、多かれ少なかれ「仮止め」としての性質を持つ moving target である。別の言い方をすると「いちおう動いてるっぽい、たぶんこういう理由でうまくいってる」くらいのアイデアは多い。しかし単純化によって「こういう理由でこのやりかたは<正しい>」という単純化がおこりがちである。ここでも教わる側はゼロよりはマシになるのでいいとして、教える当人は本来あるべき以上にアイデアを信じてしまうのではないか。棘のある言い方をすれば教えているアイデアを信仰化してしまう恐れはないか。
この overrating の延長として、教える側にいると自分の能力を過信しがちではないか。何かを教えると「生徒」からは「尊敬」されがちである。企業などだと公教育の現場みたいなピュア教育環境ほど極端な非対称性は生まれないけれど、それでも教えることで権威は生まれる。教える側が報酬としてこのブースト現象を「利用」するのは構わないと自分は思っている。ただその立場がエゴにつながる心配はしたほうが良い。教える立場からうまれた権威の影響半径は、体感よりも小さいから。
思い入れや権威があると、アイデアを捨てるのが難しくなる。Unlearning というのはただでさえ難しいのに、それに輪をかけると色々こじらせがち。自分が大切、重要、本質的などと公に訴えてきたものを、時代がかわったからといって「ごめんもうそれどうでもいいわ」とはなかなか言えない。一言多いのを承知でいうと Uncle Bob を見よ。
最後の対価は、これは対価なのか報酬なのかはっきりしないけれど、人に教えていると教えることの専門家になってしまうことがある。人に教えること、教えることについて考える時間が増え、結果として他のことに使う時間が減る。そういうキャリアは別に悪いものではないと思うけれど、本人の望みなのかは・・・どうなの?教えるキャリアに入りつつある同世代に聞いてみたいね。
上に書いた話の半分くらいは人になにかを教えていた時期の自分の経験に基づいている。また教える立場にいる人を横から眺めておもったことも混じっている。
世の中のキャリアに関するアドバイスでは、しばしば人に教えることの価値を強調する。それを否定する気はない。けれど対価が議論されない片手落ち感は長いこと気になっていた。どんな行為にも対価はあるでしょう。
そうやって対価を議論すれば、対価を割り引いて落とし穴を避けるための議論を積み上げることができる。実際、教えるキャリアの長いひとは何らかの手を打っているにちがいない。そうした議論は、教える行為の価値とセットで語られていいのではないか。ただ価値だけを語るのは、先に書いた overrating そのものだ。
A caveat: 自分は教育リテラシーに特別詳しいわけではない。教える身分の人の間ではこうした議論は既に行われていて、自分が知らないだけかもしれない。そういう文献などをご存知の方は興味あるのでお知らせください。