On note

Kzys が note.mu などを使い始めるという。

むかし Mercurial ユーザだった頃、Kzys に「時代は Git ですなぜなら GitHub があるからです」と言われて Git を使い始め、それが圧倒的に正しかった体験から Kzys の流行りものへの適応には信頼を置いている。自分の中二病的アンチメインストリーム傾向は他人の力で訂正するしかない。(同じ理由で Higepon のメインストリーム力にも高い信頼を置いている。)

自分は Qiita や DEV に値するがんばった技術的文章を書く気はない。けれど note はつかってみていいかもしれない。それがなぜかはわからないが、それがなぜかを理解するために。

文章に課金したい書き手にただメッセージを公開したい自分のような人間が混ざるのは筋が悪そうではある。というか同業の Medium がその筋の悪さを pay-nudge-walling で体現してしまった。note (capitalize しないの気持ち悪い...) に同じ問題がないのかよくわからないが、そういうことをいっていると "grumpy 中年" になってしまう。


ある platform に参加するには、書くだけではなく読んだほうが良いと思う。そうしないと雰囲気や流儀みたいのがわからないし、書くだけではコミュニティに所属して楽しくやるのも難しい。

そう思ってアカウントを作り note のサイトを眺めていたのだが・・・。なんというかテクニカルなレベルで出来が悪くてげんなり。

  • たとえばトップページからリンクされている "ピックアップ" というページに "ルール1, ルール2, ルール3" みたいな placeholder が残されている。数週前から治ってない。正気か?
  • モバイルウェブでみるとレイアウトが崩れている(画面にフィットしない)。コンテンツサイトでこの初歩的な壊れ方はどうなんだ。きっと iPhone ではちゃんと見えるのだろうが・・・
  • アプリはウェブよりはマシだが、ウェブでやってほしいくらいの機能しかない。オフラインとかないんすか・・・。
  • エッセイマンガが多いが文章と混ざって降ってくる。マンガに人気あるならちゃんと UI で優遇してやってくれや・・・というかもうマンガサイトに pivot した方がいいのでは・・・。

ここでめげてはいけないと歯を食いしばってしばらく冷やかしているが・・・読みたいものが無い。

  • エッセイ漫画興味なし。文章を書きたい人とコミュニティがかぶってるのか疑問。
  • 意識高くなりそこねた自意識日記およびエッセイ。人々がこういうのを書くのはいい。でも自分は特に読みたくない。
  • 情報商材っぽいなにかへのリンク。
  • 中身のないビジネス風記事。

自分は根本的にいまあまり日本語を読みたくないし特にアマチュアの生煮えテキストを読みたくない、という問題はあるかもしれない。ならばなぜお前は日本語で雑文を書いているのかと言われるとまったく反論の余地はないけれども。


note やるぞやるぞと決めてから改めてソーシャルメディアなどに流れてくるリンクを見ていると、たしかに note で書かれたものはある。それらは必ずしも自分が読みたいものではないが、サイトの feed に提示されるものよりはマシ。しかし運用は人気のあるものを流さない方針という。治安がどうこういうビジョンはわかるけれども、結果として人が集まらないと書き手に読者を提供できるのか?そしてサイトのランキングをいじったところでハイパーリンクのある世界の炎上から距離を置けるのだろうか。いまいち信じられない。結局ソーシャルメディアからの流入に頼ってたらダメだよね。

アマチュアコンテンツの platform としても note はそれほど独占的でなく、はてなブログや LINE ブログのような従来の blog platform もよく見かける (LINE ブログは「従来の」ブログではないかもしれないけれど。) 英語圏で感じる blog の死んでしまった感は、日本語には無い気がする。

一歩さがって考えると、ブログの末裔が存命なおかげで note は Medium と違い「課金したい書き手」というニッチに集中できているのかもしれない。別の言い方をすれば note は blog の代替ではなく newsletter ... というかいわゆる「メルマガ」の代替なのだろう。そう考えると feed の ranking とかをチューンしないのもなんとなく納得できるが、一方で自分にはますます必要がないものに思えるなあ。

冒頭の「サイトからのおすすめを読むことで note というコミュニティの参加者になる」というアイデアも、メルマガ的視点でいうと筋違いなのがわかる。つまりこれら有料コンテンツの世界では一人ひとりの書き手を中心に microcelebrity 的コミュニティが構成されており、それら同士はあまり crossover しない。あるいは(有料の)書き手が別の(有料の)書き手を参照するという形でコミュニティ同士が接続される。そこに読者の姿はない。読者を過剰に empower してしまったソーシャルメディアへのアンチテーゼとして、これは一定程度正しい。

ソーシャルメディアに流れてくる note 記事の書き手にしろ、特段コミュニティとしての note に入れ込んでいるようには見えない。これは昔の blog community みたいのとは違う。世界は flat ではなく、書き手と読み手に分断されている。もっといえば有名人と mob に分断されている。そこに the world being flat というファンタジーへの郷愁がないところは post Twitter というかんじで潔い。

そう考えると望ましい note への参加方法とは、人気のある書き手の note を購読しつつ、自分も購読料で一山あてたい野心をもって有名人に絡みつつ note を書く、とかだろうか。ここで Internet microcelebrity as MLM 批判を持ち出す気はないけれども、興味もわかないな・・・。


がしかし!こうした外側からの表層的な批判が孕む的外れさから逃れるために!我々は実際に何かを書いてみる必要があるのではないか!景気づけに一人称複数ですが自分の話です。

しかしこのブログのようなことを書いてもめんどくさくなるだけだしどのみち時間も気力もないので、毒にも薬にもならず書くのもそんなに大変じゃない話題でなんか書くことないかなあ。

自分でやるのはめんどくさいのでゆこっぷ(奥様)に「なんか書いてよ」といったら断られた。一人称複数とは。

追記 (2019-07-30)