Community Exposure

もうちょっとベイエリア日本人コミュニティへの露出を増やしたほうがいいよな、と思いつつ何もせず何年も経ってしまった。

露出を増やすというのは自分を認知してもらうという面もあるが、それ以上に自分自身の地元密着意識を高めたい。そうしないと、この地に留まろうという意欲を維持しづらい気がする。

生活費の高さや自分の被雇用能力の低さなどから、これらが相対的にラクな東京に帰ることを考えがちだが、いざ帰省で東京を歩いてみると彼の地への適応も段々と失われていることに気づく。人口密度、情報密度、殺伐感、気候、どれも厳しくてストレスを感じてしまう。ひとつには、自分の東京への適応は独身者としてのそれなので、妻子ありでの東京には居場所を作れてないからだろうか。なんともいえないアウェイ感。

ベイエリアに適応できていないのに、東京への適応が失われている。英語ができるようになったわけでもないのに日本語が不自由になっていくのに似たどっちつかずさ。

少なくとも子供が就学するまであと 4 年くらいはこのへんにいたい所存だし、その先もっといる可能性もまあまああるわけなので、こっちがわへの適応を高めていかないといけない気がしている。下手に東京に目を向けると self fulfilling prophecy になってしまう不安がある。

ちなみになんで「日本人」コミュニティかというと、世間づきあいができるほど英語できないからですね。言語バリアで近所コミュニティに入れない。アパート住んでると痛感。


しかしまあ、どうしたもんかなあ。

とりあえず Facebook になんかかくか・・・と考えてみる。ベイエリアの知り合いは FB での活発度が高い気がするので。Twitter にもいるのかもしれないが・・・。

しかしいくつかのレイヤで気乗りしない。まずあまり書くことがない。当たり障りのない家族の話はゆこっぷ(おくさん)が既にいいかんじで書いてくれている。家での活動はほぼすべて家族が関与するため、当たり障りのない自分の話というのは、特に存在しない。

当たり障りのあること。書きたくない。まわりのベイエリア住人、どうにも opinionated な人が多く、しかも思想的にいまいち自分と互換性がないので不愉快な思いをしがち。これはフェアな言い分ではなく、FB のようなソーシャルメディアの上でアクティブな人という bias があるゆえにこうした問題がおこるのだが、FB になんか書く上での本質的なめんどくささなのは事実。一時期はめんどくさい人を除外していけばいいかとも思っていたが、それやりだすとキリがないのだよな。他人とのめんどくささは community に対する exposure すなわち人付き合いから切り離せない。だからこそ当たり障りのない話が重要なわけで。

そもそもソーシャルメディアとか人の醜さを暴くばかりだしやりたくないというのもある。

いま自分は一部の知人の奥さんを除くすべての friend を unfollow している。(これらのおくさんたちは当たり障りのない子供の写真をシェアしてくれるので安心して follow できる。家族写真シェアメディアとしての FB を自分は高く評価している。) それ以外にベイエリアな人たちを follow して、そうした人々の発言に自分を expose するところから始めるというのはどうか・・・と思うが、自分のソーシャルメディア嫌いに加えて opinionated people の発言を読む息苦しさを想像するとまったく気が乗らない。


書いていて思うが自分はまったく非コミュだよなあ。インターネットという空間は、それでも一定程度 like-minded な友人を作ることを可能にしてくれたわけだが、自分がいまやろうとしていることは地理的な proximity に基づいたコミュニティになんとか参加しようという話なわけで、苦手さが際立つ。くわえてベイエリア、なんというかエリートでリア充な人々が多くてあまりに価値観の互換性がない。自分も理論上は大企業勤務のエリートで週末は妻子と外出しているリア充なはずだが、精神性が現実と噛み合っていない。

そういう細部をさておいて一歩さがると、外国人としての寂しさと中年の寂しさが一度に来たという話なのかもしれない。何らかの形で comfort zone を踏み出す必要があるのだろう。あるいは自分の生きづらさを、というと大げさだけれども性格を、受け入れる必要があろう。