コーディング面接

熱心にコーディングインタビューの勉強をしている人をみると肩身が狭く辛い気持ちになる。

自分が転職したときは、面接の数週間前にリクルータに top coder やっとくといいよ、といわれたがリアルタイムで戦うのは大変そうなので過去問をいくつか解いてみて、なるほど案外難しいな、と更に何問かとく、ということを 2-3 週くらいやった記憶がある。面接でのコーディング自体も特別スムーズに答えられたわけではなかったが、なんとなく採用された。運のよさはあった。

今でもコーディングクイズ類はまったく得意ではなく、転職するなら練習しないといけないのだろうとは思うも、しょうじき大企業の面接を突破できるところまで自分を訓練できる気はしない。一度やめたらそれまでだろう。なので気分転換に会社やめてみっかとはなかなか思えない。息苦しさはある。周りを見ても、東京時代はさておきここ数年の同僚たちを見る限りクイズ面接突破の再現性があると思えるのは半数以下ではなかろうか。東京は妙に競技家率が高かったな。


競技的コーディング力に対する自分の態度は煮え切らない。

競技力は、面接はさしおいてもあるに越したことはないと思っている。「競技的コーディング面接は無駄」と主張する一団とは距離を置きたい感じ。一方で自分はそうした能力がないので、ほら競技力あればこんな風にいいでしょ、と実演できるわけでもない。ズバっとかけたらカッコイイのになあと思いつつ、もっさりとコードを書いて暮らしている。

ここでも理想と現実が乖離している。つまり、競技的なコーディング力に価値はあると信じたい。しかし自分はその理念を体現していない。コーディング面接トレーニング勢から目をそらしたくなるのは、その距離を思い出させられるから。もっと言えば、自分はゆとり入社組みたいなもんなのではという後ろめたさ。

一方でテック大企業の年収高騰に伴い面接対策としてのコーディングクイズがジャンルとして確立した結果、技能として意味のある範囲を超え悪い意味で受験勉強化してしまっており、面接の効能を損ねているのではという残念な気分もある。これはクイズ的コーディング技能にも意味があると考えたい上の気分と矛盾しているけれども、現状の行き過ぎを懸念しているという話。

受験勉強としてのコーディングについて軽く調べると、MIT は 2009 年にもう対策クラスやってた。 vs. Stanford at 2017. 東海岸やるな...

現実問題としてコーディングクイズはほんとに決定打なのだろうか。特に数値に基づかない自分の印象としては、コーディングクイズは fizzbuzz をちょっと高級にした一種の screening というだけで、その他の様々な non-coding な話題も割と重みを持っている。さらに言えば運や相性も大きい。じっさい運とか相性とか、そういう一見あまり客観的じゃない要素もあった方がよいとおもうんだよね。運がわるかったと move on できる方が精神衛生にいいし、システムの欠陥も乱数の力で多少緩和できるだろうし。

世の中には妙に知識だけあってコードがまったく書けない人というのが存在し、そういう口だけな人をうっかり採用しないための仕組みがコーディングクイズなのだ・・・と思うんだけれど。なんでちょっと練習するくらいでいいんじゃないの?だめ?世の中的には駄目って風潮なのできっと駄目なのだろうなあ・・・。自分は妙に知識だけある側に近いので、それもまた居心地の悪さにつながっている。