何を仕事に数えるか

仕事、というとなんとなく会社に行って働く・・・でなくてもいいけど直接の対価のためになんかやることを指すように思えるが、趣味でコードを書くのもプログラミングの本なりネットの記事なりを読むのもブログを書くのも仕事だよなと思う。仕事というと若干ニュアンスが違うかもしれない。 Work といえばいいだろうか。Work Life Balance の Work.

仕事とか Work という言葉にアレルギーがあるなら career progression でも良い。

「仕事」と「勉強」を区別するのはナンセンスである。仕事と仕事以外の境目だってそれほどはっきりしていない。会社での仕事はふつう収入に直結している。投機性がない。いわゆる「勉強」には将来役に立つかもという期待があり投機的である。ここでいう期待は動機のことではなく、期待値とかいうときの期待ね。

会社の仕事にしろ、チームや組織の思惑と自分の思惑が 100% align しているのなければそこには常にトレードオフがある。つまりチームのために完全に献身するとは限らず自分のやりたいことをやることはある。たとえばバグのトリアージ遅れやテストインフラを改善した方がチームの生産性あがるだろうなーでもそんなもん自分じゃやりたくねーわ、とプロダクションのコードを書くとか。逆に新機能遅れてるけどあんま興味ないんでスルーしてツールでも作るか、とか。

自分の正しいと思っていることと TL やマネージャの正しいと思っていることがズレることもよくある。こういうとき、自分の正しいことをやるのは「趣味」で、上から降ってくる意向に従うのは「仕事」なのか?「仕事」した方が給料はあがるかもだが。

ていうか、そもそも勤務時間中だって別にずっと目の前の仕事だけしてるわけじゃないでしょ。しててもいいけど、それって割と選択の余地あるじゃん。カリカリ働けば成果を出せるし、チンタラしてると進まない。そしてチンタラ働いている人はそれなりにいる。そこに consequence はあるが、一方で給与と成果の関係は特に linear というわけではない。人によって適切なチンタラ度というものがある。チンタラとまではいかないにせよ、残業してバグを直すか諦めて五時で帰るかとかも、選べるといえば選べる。

もっといえば、丁稚奉公なり石の上にも三年みたいな働き方は将来の見返りを求めており、投機性が高い。投機性が高ければ趣味というわけではない。

「勉強」にしたって、たとえば仕事で使っているライブラリやツールについて調べるのはまったく投機的でない。このツール/テクニックは仕事で使えそうだな、と調べるなら少し投機的である。転職に向けた準備で何らかの調査や訓練をするのは更に投機的だが、一方で転職って仕事そのものじゃん。

いや勉強じゃなくて趣味ですよ、というのだって、そこで得るものが仕事に役立つ期待(将来の確率)があるなら、それは仕事である。趣味と仕事が排他である必要はない。期待値の高低はある。だから個々のアクションの仕事としての濃度には差がある。ウェブプログラマで食ってく予定の人が FPGA やるとか、マネージャになる気がないのに経営の本よむとか、期待値低め。

目先の仕事にしろ趣味のコードにしろ、その経済効果、必ずしも financial なものである必要はないがなんらかの objective function, との相関ははっきりしていない。人は portfolio について考える必要がある。


子供の相手をするとか、配偶者と話をするとか、家族でどこかにでかけるとか、掃除洗濯炊事とか。これらのアクティビティが仕事の役に立つ可能性は限りなく低いので、これらは仕事ではないと言って良いだろう。Work Life Balance でいうところの Life に相当する。マンガや小説を読むとかの非プログラミング余暇活動も、多くの人にとっては Life にカウントしてよかろう。

Jeff Bezos の Work Life Harmony 理論によればこうして家庭で refresh するのは翌日の仕事の糧になるでしょ、という話になるわけだが、そういうマクロで不透明な話はおいておく。

仕事に人生のどれだけをどんな形でつっこむかは、つっこむ資源(時間)の話と時間のポートフォリオ、経済的合理性とそのほかの principles のバランスなどによって決まる話。資源がいっぱいあると余裕をもって振る舞えるし資源がなければ妥協や工夫を求められる。ポートフォリオの攻め度合いには性格もあらわれる。Financial freedom 以外の principles は単なる性格を超えた人となりを物語っている。

資源を沢山もっているリスク選好の高いの人々がそれを活かして楽しく Work しているのをみると資源も度量もない自分は羨ましすぎて悲しくなるが、持てるものの違う他人と自分を比べても仕方ない。

そうした制限と意思決定の連続が職業人生だとおもう。

だから他人の人生のパラメタを知らずにプログラマはこうあるべきと叫ぶ人々をみるとうんざりする。あえて細部を無視し声を上げる政治活動に意味がないとは思わないけれど、政治活動にしちゃメッセージの届け方が無神経だよ。


追記 (2019/10)

オンラインの声の多くは既に価値観を共有する相手を探すための sonar であり、反りの合わない意見が目につくのは文字通り noise に過ぎないという社会分断主義を受け入れた結果、主張の雑さはバグではなく仕様だと思うようになった。自分は自分のやり方で仲間を探していきます。