卵と壁と窓

Always on the side of the egg - Israeli Culture - Haaretz

当時すなわち 2009 年にこの話を読んだ自分は、村上春樹と違ってじぶんは "The System" を支持すると思ったのをよく覚えている。

去年から今年にかけて、世の中や自分の勤務先をめぐる軋みのようなものに圧倒される、というと大げさだけれども失望する、というのもちょっとちがうが、なんというか、ある種の納得のようなものがあり、最近ふとこの話を思い出し、なんとなく読み返してみた。

これを最初に読んだとき、自分は The System を政府や企業のようなものだと考えていた気がする。それは近似としてはあっているが、The System だと世間から思われている企業の下僕として何年も働いたあとに振り返ると、いやそうじゃないんだ、といいたくなる。これは概ね言い訳でしかなく、何かを正当化したいわけではないけれども、ここでいう The System というのは政府や企業やメディアを動かすインセンティブのフレームワークみたいなもので、あいつらがしょうもないのはなんというか、フレームワークの帰結なのではないか。

とはいえ自分という個人もやはり一つの egg なのだ、と主張する気もなく、今や wall の構成分子になってしまった自覚はある。なので卵をぶつけられても仕方ないなと思う(やだけど。)皮肉なことだが、The System の正しさを信じていた 2009 の自分は今思えば egg だったね。The System いいじゃん、みたいな judgement ができるというのは個人というものであることよ。今はもう The System には良いも悪いもない所与の事実みたいなものという感覚が強い。それはたぶん間違っているが、では wall のない世界なんてありうるのか。腐った卵のスクランブルエッグになるだけじゃないの。


ところでこの講演は egg と wall ばかりが引用されるけれども、小説家としての世界に対する態度、 lie と story の力、というところも割と読みどころだと思う。プログラマというか自分も、もうちょっとこう、世界に対して個人的な態度がとれればいいのにね。

この話を思い出すきっかけになったのは割れ窓理論との再会だった。割れ窓理論で世界をクリーンに保とうとする post agile で automation everywhere なプログラマの世界観って、どう見ても The System だよね。アジャイル原理主義者だった 2009 年の自分が The System に肯定的なのは自然なことに思える。そして The System の駒として組織に埋め込まれたプログラマたる自分がとれる小さな個人的態度が @SuppressWarnings なのではないか。いやでまかせです。すみません。