出荷を見届ける

朝早く会社に来て、ほかの早起きな同僚たち数名と新製品発表会のライブを観る。いまのチームに入ってちょうど一年、ようやく仕事でやっていた製品が出ていくのを見届けた。年に一度のハードウェア発表に向けてがんばって働くこのソフトウェア開発モデルには懐疑的な自分だけれども、やや感慨はある。

今のチームは、自分が全く活躍できていない点を除けば割と良い。カメラはスマホの重要機能とみなされていて、しかもまだ良くなる余地がある。スマホ自体も競合に対しキャッチアップする側におり、それでありながら敗戦処理モードでなくやることがある。こういう伸びしろのあるチームで働く方が、会社員としての精神衛生を保ちやすい。

コードも、まあまあ良い。良くないところも多いが問題の多くは認識されており、人々に直す気もある。なのでコードを良くする仕事をしやすい。若干官僚的なところは気に入らないが、適当にしらばっくれている。それで角が立つほど厳しくもない。以前のようにコードを読んでいてひどさに発狂したくなることはなくなった。

チームの人々は、前のチームと比べると大企業的というか、ふつうにスマートかつ温厚。前のチームは買収で入ってきた人が多くて平均年齢も高く、そのせいか個性的で主張の強い人が多かった。それはそれで楽しかったし好きだったけれども、仕事に限って言うと淡々とできる方がラクではある。まあ職場というのはひどい jerk さえいなければどのみち楽しくやってけるもんです。


カメラアプリの差別化要素は HDR+ にしろ合成ボケにしろ夜モードにしろリサーチ部門の成果である。自分たちアプリ部門はその成果を製品としてパッケージするのが仕事。リサーチ部門といっても普通にばんばんコードを書く人たちなので、アプリとして出荷されるアルゴリズムのコードも彼らが実装し、ふつうにデバイスでデバッグしたりなんだりしている。

同じ製品のために働いているとはいえ、リサーチ部門は別の組織である。だからいまのチームでがんばったところでそういうかっこいいアルゴリズムの中に近づけるわけではない。少し寂しい。

前にやっていたウェブブラウザの仕事では、すごいエースプログラマみたいのが組織の中のどこかにいて、そのすごいプログラマと自分は間に距離こそあれ地続きな感じがした。もっといえば、自分の report line の先には Darin Fisher や Ben Goodger といった Chrome の founding member がいて、仕事のキャリアと自分の憧れは足並みを揃えていた。

Pixel のカメラというのは、自分の中では Marc Levoy の野望を叶える vehicle である。Light Field からはじまった Computational Photography を、Frankencamera, Halide, Pixel Visual Core, HDR+... といったテクノロジースタックとして結実し、計算機の力でそこらへんのカメラをやっつける。このストーリーには圧倒的なかっこよさがある。Mark Levoy はかっこいい。その野望の実現のためなら下働きも厭わない、というと言い過ぎだけれども、自分の今の仕事のやる気を支えているのが Marc Levoy の存在なのは間違いない。なので Marc Levoy がファイルしてきた UI のバグとかを直せるとちょっと嬉しい。我ながらファンボーイというかファン中年すぎる。

が、そんなスターは自分と地続きではなく、どこか遠くのリサーチ部門にいるのだった。

リサーチ部門とアプリ部門が分かれている事実を大企業のせいにする気にもならない。ブラウザ仕事時代のエースのひとり Adam Barth のやっている仕事、書いているコードを、自分は少なくとも理解はできた。でも HDR+ のエース Sam Hasinoff の仕事、すなわち論文だとかそれにもとづくコードというのは、自分にはわからない。組織上の壁は能力の壁を反映している。もちろんアプリチームの中にも HDR+ だとか computational photography をちゃんと理解している人はいると思うけれども。

この寂しさは仕事が悪いというより自分のボンクラさのあらわれなので、特に文句をいう気もない。彼らの書いた論文を眺めて成果を表面的にでも appreciate できたら、少しは報われる。

学生だった自分にとって、かっこいい成果をばんばん SIGGRAPH に通す Marc Levoy は憧れとか目標とかそういうレベルを遥かに超えたスターだった。自分はアカデミックに何かを頑張ったことは一切ないので目標もなにもない。それでも巡り合わせで近くから彼らの成果を伺うことができるのは、期待値にはあっている。でももうちょっと頑張れなかったのかね自分・・・という悲哀が消え去ることもない。