作らない、作れない

今年もふたたび @Scale に行ってきた。(去年)

おもしろかったが、一方でこういうかっこいい何かの一部になることは自分にはもうないだろうと思い知らされる面も強く、気落ちした。

知り合いが podcast で "自分で作ろう!" という話をしていた。この episode の主張は、プログラマは年をとると自分で何か作っても大変な割に良い物ができないからと既製品ですませようとするが、それは面白くないし作らない側のバイアスが強すぎるので作る側に倒してみると良い、という話。

自分は、すくなくとも余暇では何も作ることはできないし、仕事も目先の成果を優先して色々妥協しているのでここでいう「作る」に相当するなにかをすることはない。別の言い方をすると自分は作るか作らないかという選択肢から作らない選択をしているわけではなく、作るという選択肢がない。作る必要がある問題は、単に諦めている。

これは悲しいことだが自分の選択の結果なのでどうこういう気もない。自分の現状を正当化しようと作る選択肢の価値を低く見るようになってはいけない。一方で、現実にはそれは難しいとも思う。自分が「正しい」選択を諦め続けているという事実を見つめながら日々を過ごすのは、控えめに言って憂鬱だ。だから自分の言動の端々からは「作らなさ」のようなものが滲み出ることだろう。自分の知人にもそういう人はいる。

支持したい価値観と自分の行動が一致しないことが増えてきた。こういう場面で人々の振る舞いは色々だ。

行動にあわせて価値観を調整する人もいる。上の例で言うなら何かを作らずありもので済ますのを良しとするようになる。行動と言動の不一致を受け入れる人もいる。「自分で作るといいよ」といいながら自分では作らない。何も言わなくなる人もいる。ただ姿を消す。

多くの場合は、これらが少しずつ同時におこる。言葉の角が丸く曖昧になり、時々かっこいいことをいっても行動は伴わず、存在感が薄れていく。