モダン根性論

Learned Optimism, Mindset, Grit, Outliers, Deep Work などに示されるストイックかつ自己決定的な自己啓発の世界観を、自分はモダン根性論と呼んでいる。そしてまあまあ影響を受けている。

モダン根性論とは、成功するには才能よりも時間や労力をかけて全力でがんばり続けるのが大事なんだよ、という根性論的価値観がまずベースにあり、その上でがんばり続けるとはどういうことか、その難しさ、がんばり方、頑張りを支える考え方、頑張りを成果につなげる戦略などを色々と理論武装していく一派である。

自分はかつて、根性の有無について考えるのはよくないと思っていた。「根性の無さ」というのを才能のように捉えることで、自分の才能の無さを言い訳にしてしまいそうだったから。でもこの態度は良くなかったと今は思っている。これは結果として根性全体から目をそらし、方法論としての根性というものを見出す機会を逸しているから。

さらにこの態度は、ある種の才能主義を自分の無意識に植え付けてしまう。努力以外でなんとかなる、たとえば要領の良さみたいなものがあるという考え方は、はっきりとそう言わないだけで才能のようなものを想定しているからね。

要領というものはある。けれど大前提として努力は必要。モダン努力家はそれを努力とは呼ばないかもしれないけれど、沢山の時間や労力をつっこんではじめて要領を議論できる。元本なしに利息を考えても意味がないのと同じで。

という見方をすると sustainable かつ efficient な根性の運用方法、すなわち「方法論としての根性」について議論するのがモダン根性論とも言える。

自分は根性の playground である大学受験をスキップしてしまったせいで、根性について理解を深める機会を逸した。というと言い訳がましく、まさに自分の根性の無さへの恐れから大学受験をスキップしたのだと思う。当時は特にそう考えてはいなかったと思うけれど。

けれどあるとき仕事のやる気がない時期の現実逃避で割と熱心に英語を勉強したらそこそこできるようになったので、ああ時間と労力を割くと効果あるなと思い直し、そのあと冒頭にある本たちを読んだ際に convince されたのだった。


情報産業で成果を挙げたいなら素朴な根性、すなわち長い期間取り組むだけだといまいちだな、と思う。時間が全てを解決してくれるとは思えない。たとえば自分が今から余暇の全てをなげうって機械学習を勉強し、十年後に現段階の state of the art を完全に理解できたとする。自分は <AI 人材> になれるだろうか。あまりそういう気がしない。

なぜかというと、10年の間に世の中が前に進み、変化してしまうから。時の流れでうつろいゆくのは情報産業だけではない。とはいえ変化の速さは情報産業の特長の一つであるとも思う。なので時間をかければよいというものでもない気がしている。

自分に何が足りてないかといえば、まず絶対的な時間の不足はある。そして intensity も足りてないなと思う。単位時間あたりのがんばり不足。世の中のエリートを見ると、つっこんでる時間も多いけど密度も高い。モダン根性論のジャーゴンではこれを Delibrate Pratice と呼ぶ。エリートたちの Delibarate Practice への耐性は、人生のどこかの段階(大学受験、修士および博士過程など)での訓練を通じて身につけたものに見える。

情報産業の中で前の方に居続けたいと思うなら、時間をつっこむだけでなく密度も必要。自分はどちらも足りていない。ただまあ、今や世界の富が流れこむ競争の激しい世界なので仕方ないとも思う。The stake is high すぎというか...

十分な密度を持たない場合の選択肢として「前の方にいる」ことを諦める方法がある。今やそんなに流行ってもいないけれど、廃れてもいないテクノロジというのは沢山ある。そういうものの一つに詳しくなる。そのテクノロジが愛せるなら悪い選択肢ではない。典型的には、若かりし日に流行っていたテクノロジの第一人者になり、旬を過ぎた後も見捨てず第一人者であり続けるというスタイル。この道を選ぶ人はけっこういて、それなりに成果を出している。それはそれでいいとおもう。

自分がこの道を選ぶ気になれないのは、ひとつには愛せると思っていたテクノロジが目の前で失われる様を見たからだと思う。あとは特定のテクノロジよりソフトウェア産業のダイナミズムや時代性、軽薄さみたいなものに興味があるのかもしれない。

あるいは色々言い訳しているけれど、単にぜんぜん根性ないだけかもね。

追記

Grid に関するいくつかの反論:

しかし自分は、根拠が薄いのに「科学的」と特定のアジェンダに熱狂突撃していくモダン根性論のアメリカ人ぽさが好きなのであった。