Revisiting Susan Fowler
暇に負け日本語のインターネットをみたら MeToo の話がいびつな形で盛り上がっていた。あまり詳しく読んでないけれど、この手の話を目にするたび Susan Fowler は凄ったな、と思う。思わず読み直してしまった。
Sexual assault の告発は、どうしても類型的になりがちである。一番多いのは同情を呼ぶ涙ながらの訴え。そうでなければアクティビスト的な怒りの非難。
告発をステレオタイプだからと責めるのは筋違いで、形はどうであれ励まされてよい。責められているのは告発されている側なわけで。とはいえこの構造はやや使い古された面がある。地殻移動を起こす勢いがない。まだ役目を終えていないのに。
Susan Fowler の記事は違う。まず体裁が穏当を装っている。友達がみな Uber どうだったって聞くからブログで答えるよ、と始まり、まなかなかエキサイティングな職場だったよ先に書いたとおり残念なこともあったけどね、と終わる。読み手は文化戦争へのガードを下ろしストーリーに入り込む。
そこで待っている異常な光景。けれど当事者でありながら Susan の視線は淡々としている。感情のノイズに濁されることなく描き出される不条理小説みたいな展開は、滑稽にすら感じられる。革ジャンのエピソードとか、正直ちょっと笑っちゃうじゃん。
この精緻な不条理さは文体だけの力ではない。Susan は Uber にいる間、ずっと正しい形で戦い続けている。繰り替えられる HR との問答。CTO や上司たちの無様な言い訳。戦って踏み込んだからこそ多くが露呈した。
この勇敢さ。クソ会社/上司に当たってしまったら、逃げだしたって誰も文句は言わない。むしろそれが普通。戦いを挑んだらもっと酷い目に遭う。Susan も理不尽な人事考課を受けている。そんなひどい目に遭ったら心を病んだり、闇に堕ちたりすることだってある。同時期に書かれた匿名 Uber 批判の中には、シリコンバレーに嫌気が差し田舎に帰ったと終わるものがあった。
逃げるのも、心を病むのも、この異常な世界では完全に普通のことだ。けれど Susan は戦って生き延びた。しかも怒りに身を任せず、冷たく批判の刃を抜いた。
この完璧な whistleblowing をやり遂げたにも関わらず、あるいはあまりに完璧だったからこそ、 Susan はアクティビストに転向しなかった。ちょこちょことソーシャルメディアをしたり新聞の取材に答えたりしてはいるけれど、基本的には転職先の Stripe で楽しくやっている、ように見える。
多くの告発と異なり、Susan は直接わりやすい consequence を求めなかった。賠償も、経営陣の交代も。だから対価を巡り戦う必要がなかった。これで裁判とかになると、もちろん法廷で争ってもリーズナブルな事件だけれども、告発を個人の問題、金の問題に卑少化してしまうリスクがある。Susan はそうしなかった。かわりに素敵スタートアップの職という足場を確保し、上から切りつけた。
一旦告発者になると、告発者としての一生を過ごす覚悟がいる。大半の告発ガイドにはそう書いてあるし、Susan もインタビューのなかで認めている。でもそんな犠牲を払うのは、なんというか、ちょっと負けてる。悔しい。Susan は踏みとどまり、刃を収め move on した。つまらぬものを切ってしまったとでも言わんばかりに…
端的に言うと Susan はかっこいい。文句なしにかっこいい。機会があったら著作の表紙にサインしてほしいくらいかっこいい。Snowden のように告発者には告発者のかっこよさがあるけれども、Susan は同業者、テック会社員としてかっこいいじゃん。
MeToo 的 sexual assault の告発がこんな完璧である必要はない。それはまったく理不尽な求めだ。一方で Susan は完璧にキメた告発の破壊力を示した。Uber ブランドは地に落ちた。非上場企業の、議決権を握る創業者社長を休職に追い込み、新しい社長を雇わせた。シリコンバレーにセクハラ糾弾の津波を呼び込んだ。
かっこいい。
MeToo はさておき liberal media や Democrats はこのくらいかっこよく完璧な allegation をキメてあのしょうもない大統領をなんとかしてほしいもんだよなあ。玉石混交の弾をランダムに打ち込んでもノイズにしかならない。それがインターネット時代の声について人々が今年学んだことなのではないかしらね。
Susan Fowler は FT の person of the year に選ばれ、NYT のインタビューによると映画化の計画もあるらしい。観るしかない。