Daydreams of a Revelation
自分のキャリアとかを考える時期は終わって、自分は子のために生きてるのだなと感じる瞬間がある。たとえば。
ある晩、奥さんの勤務先主催の holiday party に子を連れて出かけた帰路の車内、いつもの就寝時間過ぎまで起こされぐずっていた子が静かになり、やっと寝たかと顔を覗き込む。窓から街灯が差し込み、カーシートの上で静かに宙を見つめている子の顔が浮かび上がる。その表情はぎょっとするほど大人びている。ああ。
この子の前には無限にたくさんの可能性が広がっていて、自分の前には可能性の搾りかすだけがあって、それならこの無限の可能性から子が素晴らしい何かを選び取れるよう手を貸す方が圧倒的に妥当じゃん。諦めでも熱狂でもなく、すべての謎が解けたように、ただ腑に落ちる。
この感覚は白昼夢として過ぎ去っていく。
けれどそのあと、いつものように自分の仕事やプログラマとしての先行きを思い悩むとき、自分の中にある深刻さや熱意の前に夢のベールが覆い被さる。まあ細かいことはどうあれなんとかがんばって金稼ぐしかないよな。そんな気分が頭をよぎる。
なんとかがんばって金を稼ぎ続けるには結局自分のキャリアを前にすすめるほかない。だからこの白昼夢が何かを大きく左右することはない。でも背後にある reasoning が、いつの間にか書き換わっているように感じる。その論拠は言語化できない。けれど腑に落ちた感触が消え去ることもない。