2015/09/07: Re: 日本に閉じることについて
特にkzysになんか言いたいわけではなく、ふと考えを整理したくなったのでしてみる。なおMacbook 水没故障につき途中から Moto X で書いてるので、なんか変かもしれない。モバイル力低し。
kzys はなぜ外資で働くのかと聞かれた時…と書いてるけれど、プログラマの身からすると、なぜ外資で働くのかと疑問に思う気持ちがよくわからん。商業ソフトウェアというのはアメリカの独壇場であって、US based company で働くかどうかは、多くの場合するかしないかというよりはできるかできないかの問題ではないか。オープンソースもまあ、だいたいアメリカでしょ。
仕事にする上で不安があるのはわかる。でもそれはたとえば日本支社で実際に開発してんのとか、英語できないとムリじゃないのとか、十分に高い専門性がないと雇われないんじゃないのとか、そういう点ではないか。そこでコード書けるもんなら書きたいに決まってるじゃん。自分はそこに疑問を感じたことはなかった気がする。
自分の記憶は改竄されていないか?どうだろう。たとえば最初の勤務先は経営者が "Post-PC 時代で打倒 MS" みたいなことを言っていた。日本市場を制覇して海外進出してと、当時その言葉が一定程度の信憑性を持つ瞬間はあったかもしれない。自分はそれを信じていたか?わからない。少なくとも勝つ姿を想像できてはいなかった。想像できなかったのは想像力不足かもしれないし、手元にあるコードがしょぼすぎたせいかもしれない。
会社員になって1年目の終わりくらいに、自分の書いている SVG の実装と Mobile 向け Flash がコンペにかかる、という事案があった。そのコンペは負けて、まあ考えると当たり前の結論ではあったが、自分は結局モバイルも上の世界(PC)からやってくるコードに負けるのだな、と結論した記憶がある。今のスマホ市場を見るとこの結論は必ずしも正しくないけれど(Flash は死んでしまったし)、グラフィクスの専門家が書いたコードに私大新卒のしょぼいコードが勝てない、という見方をすれば圧倒的に正しいとは思う。そしてそんな専門家は周りにいなかった。
1-2 年後に会社の雲行きも怪しくなったりして、その頃には日本のソフトウェアが US のものより良くなりうるという言説は信じていなかった。そして自分の経験から、勝敗の理由は謎のアンフェアさではなく実力どおりだと思っていた。市場の動向を見ても、ウェブサービスで US の流行りを輸入して成功した会社がその後ぱっとしなかったり、Twitter みたいに国内クローンを寄せ付けないものが現れたりして、確信は深まった。まあこれは追認バイアスかもしんないけどね。
なので US based 企業で働くという選択肢があるのならやりたいというのは、その選択をした時の自分にとってはすごく自然だったし、その感覚は今でも変わらない。すごい当たり前に思ってるけど、案外一般論じゃないのかね。
もちろん "選択肢がある" というところはそんなに自明でもなくて、選択肢がないと感じるのは理解できる。自分も選択肢があるとは思ってなかったし、東京に Chrome/WebKit のチームが来る偶然がなければ選択肢はないと信じ続けて特に挑戦はしなかったと思う。もともとそんなにガッツある方じゃない。機会があっても家庭の事情や生活の幸福度などで日本をとることもあろう。それも理解できる。
でもなんでって聞くようなもんじゃなくね?親戚のおっさんとかならともかく…電機メーカーみたいに世界で戦えてた過去があると、また違った世界観が見えるのかねえ。わからん。
まあそれはいいとして。
日本の会社で働いていたら、振る舞いの選択として "日本に閉じる" のは現実的な気はする。
たぶん kzys はこの記事を参照しているのだと思うけれど, 自分が日本の会社で働いているとして, 業務時間外の半職業的活動(学習, 腕試し, コミュニティ参加, 自己宣伝)をどう割り振るか.それを国内/英語圏というコンテクストで捉えた時どう見えるか.
単純に挑戦や学びという点で見るなら、半職業的活動も英語圏になるのは自然に思える。言語とか特に関係ないことも多そう。
コミュニティ参加は悩ましい。英語圏のコミュニティの方が大きいし「本家」であることも多いだろうけれど、入っていくのは大変だしミートアップも海外でやられて参加できなかったりする。日本のコミュニティは周縁的だけれど、敷居は低いし実際に会って話すのもラクだろう。コミュニティに参加して「仲間感」みたいのを楽しみたいなら、そういう敷居の低さは意味がある。
自己宣伝。日本にいて日本の会社で働くつもりなら、英語で書いてもあんまし意味ないよね。
リンク先の人がやってるような活動は、ここではコミュニティ参加と自己宣伝に割り振って良いとおもう。自己宣伝というと聞こえが悪いけれど、読者の求めがあることを書くなり話すなりするわけで、意味、価値はある。挑戦としての面白さはどうかわからんけれど。
逆に英語圏で、日本人プログラマがコードを書く以外の価値のあることをするのは大変だと思う。コードを書いて意味のあるとこまで行くのも、言語バリアはさておき競争は激しい。なのでめちゃコードをかける場合以外、生み出す価値の期待値は低くなりがちな気がする。ただ挑戦としての張り合いはあるように見える。
なので英語圏でがんばるかどうかは、価値、成果の出しやすさを重視するか挑戦を重視するかのトレードオフと、その人の技量、競争力に依存して決まるものではないかしらね。
英語圏でやったほうが成果になる。そう口にするの人がいるのは、実力者ゆえの遠慮のなさか、強がりか、どっちかだとおもう。
自分は職業経験のおかげで、コードならジャンルを選べば(ブラウザ周りとか)英語圏でも成果を出せると思う。でもコード以外はかすりもしない。でもブラウザまわりでなんかやったり日本語でなんか書いたりするのはいまいち退屈でやる気にならない。そのせいで業務外活動では長いこと何も成果を出せていない。「価値」を生んでない。これは自分の成果への期待値と実力に齟齬があって、期待値に近づく方を優先してる結果なので仕方ないと思っている。