Half-Baked Promises
コンピュータの世界には、来るぞ来るぞといいつつなかなか来なかったり、来たはいいけれどぱっとしなかったりすることがよくある。次世代ナントカみたいの。それをハイプと呼ぶ人もいるけれど、ぱっとしないにしろ来たものをハイプ呼ばわりするのも品がない。生焼けの約束とでも呼んでみたい。
機械翻訳と英語学習に関する議論を目にして、この生焼けの約束を思い出した。
機械翻訳はさておき、一般にこの来るかもしれないけれどまだ来ていない生焼けの約束を前にどんな態度をとるべきなのだろう。テクノロジ産業に生きる身として、ただそれをハイプと無視するのは正しい態度ではなかろう。一方で約束が叶う前提があるかのように話をするのも浮ついて見える。慎重に、といった玉虫色の答えも判断の助けにならない。
プログラミングに置き換えてみる。pre-1.0 のプログラミング言語やライブラリをどう評価するか。使ってみるしかない。自分の主たるプロジェクトで使うべきか。場合による。不安定で新しいコードを仕事で使うにはそれなりの覚悟がいる。使う以上は積極的にバグレポートしたり、自分で直したり、クリエイティブに欠点をワークアラウンドしたり。それが有限のリスク予算を未来の技術に投じる覚悟だろう。Dogfooding の精神と言っても良い。
機械翻訳を頼れば英語学習はいらないと主張したいなら、機械学習を dogfood するのが良いのだろう。英語は読まず、常に機械翻訳を通して読む。英文は書かず、常に日本語を機械翻訳する。そうすればきっとテクノロジの限界がわかるし、逆にテクノロジの使いこなしも長けてくることだろう。その向こうには英語学習のいらない未来、そして機械翻訳を使いこなす学習の必要な未来が、待っているかもしれない。いくつか翻訳の例文をみただけで機械翻訳の未来を判断するのは、サンプルコードだけからプログラミング言語を判断するようなもの、かな。
自分には機械翻訳を dogfood する覚悟はない。機械翻訳の約束が叶わないと思っているからではなく、単にリスク予算がないから。だから自分には機械翻訳に関する未来予測はできない。仕方ない。未来はわからないもの。
一方で、自分は未来を dogfood するためのリスク予算をきちんと使い切っているだろうか。まだだいぶ余っている気がする。保守的で億劫がりな性格が腰を重くしている。テクノロジ産業従事者として生焼けの約束たちを摂取しないとなあ。