週末みたいな平日

北海道で法事を済ませたあと、雑用がてら三日くらい東京に寄り道している。おくさまは都合がつかず家で留守番のため今回はひとり旅。懸念だったいくつかのペーパーワークはさいわい速やかに片付いた。東京での一人の時間!貴重な何かがいま手元にある。

友人と合う。普段会えない人に会えると嬉しい。一方で声をかけてまで会いたい相手が片手で数えるほどしかいないとも気づく。面識のない、あるいは数度合っただけの誰かに声をかけて会いに行く身軽さや社交性がない。夏休みに帰省するまわりの人々が日々忙しく誰かに合う様を目にして自分もかと思ってたけど、気のせいだった。自分の社交性に関する不都合な事実。

普段食べられないものを食べる。おいしい。けれど普段の食事に満足しているのを再確認しもする。美食家じゃないせいか「どうしても食べたい!」というものがない。強いて言えばカツ丼。でもトンカツと親子丼はたまに食べているから要素単位での食欲は満たされている。今日は昼飯にカツ丼を食べた。美味しいし満足したものの、ああやっと食べられた、うまいー、幸せー、またしばらく食べられないなんて悲しいーみたいにダンスするかんじでもない。強い飢えがない。

晩飯は特段食べたいものが思い浮かばず、引越前に住んでいた街にあるおくさまお気に入りの餃子屋で定食。餃子写真をメシテロする。平和さの象徴としてのテロリズム。帰省時にシェアされるメシ写真は別に感極まった食欲の発露ではなく単なる生存報告の ack なのかもしれない。

大型書店に行く。本屋はいつだって気持ちが高ぶる。カゴを手に、あれも読みたいこれも読みたいと店内を彷徨う。気がつくと一時間、二時間と時が過ぎている。そういえば独り身の自分にとって、外出イコール本屋に行くだった。札幌、新宿、神保町、あわせて五軒くらいハシゴしてしまった。池袋に行けないのは少し無念だけどまあいい。歩きまわると暑いし。

けれど買うに至る本は案外少ない。技術書はもう日本語で読まないことにしている。どのみちもうキューがいっぱい。まんがもほとんど読んでいない。大判で作家別に並んでいるサブカルまんがのコーナーをひやかし、そういえばこういうまんが好きだったけどあまり電子化されてないな、もっとされないかな・・・とかぼんやり考える。

自分で読むものは保留し、おくさまに頼まれていた本と、きっと好きだろうと思える鳥の写真集、翻訳小説を一冊ずつ、そして友人へのおみやげになりそうな雑誌を一冊買う。

なんかこう、本の選び方ってもっとランダムじゃなかったっけ。ハシゴ先の札幌ジュンク堂でそう思い立ち、棚を眺めなおす。Uber 撤退以後アメリカ人が色めきだっている中国系テック企業群についての本を探す。シャオミの本を一冊買う。これは東京への飛行機内で読んでしまった。そこそこ面白かったけど、業界の理解が深まるというよりシャオミを応援したい気持ちになる類の自伝だった。

神保町三省堂ではエコノメトリクスに入門したいとランダムに思いたつ。そうそう、リアル本屋は思いつきで行動できるのがいいんだよと一瞬浮足立つが、立ち読みをしたら気楽に入門できる気配が微塵もなく落ち込む。仕方なく GDP の歴史について書かれた読み物を買うだけで気を済ます。そういえば思いつきで買った本は読まないまましばらく積んだ末に捨てることが多かった。都合の悪い記憶がふたたび蘇る。

気をとりなおし、本屋はしごの帰りによく立ち寄った喫茶店に入る。そうそう、買った本をすぐ読むのが楽しいのだよね・・・とページをめくるも、背後に陣取る女性ふたり組の声が大きく気が散ってはかどらない。そんな大声で実父の terminal care について話さないでおくれ。そういえばこの喫茶店、内装が好きなせいでつい足が向かうけれど喫煙者がいたり声のでかい客がいたりで長居の読書ははかどらないことが多かった。逃げ出すように店を出て、かわりを探しさまよった末にあきらめて失意のまま家に向かった日々を思い出す。

自分には確実に本を読み進められる場所がなかった。目につく喫茶店やコーヒー屋はどこもタバコ臭かったり席が狭かったり声のでかい客がいたり、たまに気に入る店があっても満席で入れないのがオチ。なんとなくそれが正しいように思えて従おうとしたけれど、たぶん家の外で本を読むのが苦手だった。自分のアパートも狭いし壁が薄いしであまり快適ではなかった。引越しのたびに部屋を狭くしていった自分は社会人生活のどこかで本を読む場所を失い、それは壊れたままだった気がする。

近所にコーヒー屋が少ない不満は今もある。でもどのみち自分は店の中で本を読めないんじゃないか。どうせならコーヒー屋でなく公園で読めばいいのかもしれない。公園には声のでかい客も喫煙者もいない。アパートだって昔よりは随分快適だ。だてに家賃が狂ってない。

本屋に行って読むかどうかわからない本を買って落ち着けるコーヒー屋の見つからなかった自分は、家に帰ったあと何をしていたんだっけか。たぶんマンガを読んだりインターネットをしたり数少ない友人とくだを巻いたりしていたのだろう。コードは大して書いてなかった。たまにブログを書くこともあり、それはまあまあ生産的だった。でもブログだって月に一度くらいがせいぜい。自分の週末はあまり生産的な時間とはいえなかったらしい。

結婚をしたあとは、週末を含め自分の好きにできる時間はずっと小さくなった。平日は炊事を含めた家事があるし、週末も掃除食料買い出し常備菜準備やおくさまと一緒につきあう野鳥観察などを差し引くと手元には半日しか残らない。一方で転勤に伴う社会資本のデノミと言語障害をうけ被雇用能力は危うい水準まで下がっている。

そんな焦りから、ここ 1-2 年は限られた時間の中でプログラマとしてのまともさを取り戻そうと試行錯誤した。時間や体力が足りない無力をいつも感じている。でも改めて見直すと、いまの自分の課外学習強度はたぶんここ 5-6 年で一番高い。結婚以前のヒマさを考えるとにわかには信じがたいものの、大企業の雇用を得たあとはいつの間にかサボりが板についてダラけてばかりいたのだろうな。ふたたび都合の悪いことに気づいてしまった。別に勤務先のせいと言いたいわけじゃなく、我ながらだめだという話。

そういえば会社員になったばかりの頃にも同じことを考えていた: 学生の頃の方が圧倒的にヒマだったはずが、会社員になってからの方が勉強している。怠け者の学生たる自分を恨みつつ、学生時代を懐かしがってばかりよりは良いとも思った。

今も独身時代の怠惰な自分を恨めしく思う。けれど独り身の自由や東京の暮らしに思っていたほどの未練はないことにも気づく。ヒマさを使い切れる器じゃなかったのかもしれない。持て余すほどのヒマさという贅沢を堪能していた、とも言えるけど。

週末みたいな東京の平日に、週末らしかったはずの週末を思い出す。こうして短い夏休みを終えた。