差別と差別のあいだのメタファ
黒人差別/Racial justice の話がいまいちよくわからくて困る。メディアを通じ緊張感が高まっており、勤務先もおまいら racial justice 大事だかんなというのだが、外人から見るとなぜこうもこじらせてしまったのかと困惑する。こういうのとか。ベイエリアはアフリカ系の絶対数がすくなく、自分もアメリカリテラシーがない。だから白人が黒人差別をする感覚がピンとこない。差別しなきゃいいじゃん、それよか銃やめようぜ、と脊髄反射してしまう。日本にも韓国人差別などがあるけれどおおむね頭のおかしい人のやることだし、どちらかというとイクゾフォビア、未知/異質さへの恐怖だと理解している。黒人差別はもっと偏見がくっきりしており、根深く見える。
このあいだ法事で親戚の集まりに顔を出したあと、ふと女性差別は黒人差別に似たところがあるのかもなと思い至った。女性差別をする人というのは(自分が黒人や韓国人のことを知らない程度には)女性のことを知らないわけではない。むしろ結婚してたりする。そのうえで偏見を持ち、ひどいことを言ったりしたりするのが女性差別というもの。程度の差はあれこれはちょっと黒人差別と似ていないか。
自分は女性差別ダメ絶対側のリベラルだけれど、自分の中に unconcious な偏見があるのはわかる。今までの社会生活を通じ染み付いてきた偏見だ。無意識な偏見はいくらリベラルぶってもふとした拍子に顔を出し embarrassed な思いをする。差別しなきゃいいじゃん、と言われるといやそうなんですけどすみませんね・・・・と語尾が濁る。社会全体でもこれを正すのが手強いゴールなのは想像できる。
アメリカの黒人差別も、ある面ではそういうものなのだろう。時間をかけて積み上がった偏見があって、偏見に reinforce された差別的現実があって、差別する側は無闇に entitled で、被差別側は stigmatized になり、恐れが武器を握らせて、それが更に事態をこじらせて。
Racial justice 課題図書の一つである Between the World and Me のハイコンテクストかつバイオレントな文章は、正直けっこう読むのがきつい。でも上野千鶴子や小倉千加子みたいなものと思えば腑に落ちる。そういうスタイルが望まれる話題なのだな。
無知なりに少しは racial justice と relate できた気がした。