Communicate, Not Socialize
あるとき「エンジニアの仕事は設計をしたりコードを書いたり communicate をすることだ」と何かの資料に書かれているのを読み、胃が痛くなりかけた。そのあと「socialize は求められてない」と続くのを見て気を取り直す。仕事の外の付き合いは Communication じゃなくて Socializing か。なお “Socialization” は違う意味。
自分は言語障壁および性格のせいでチームでの振る舞いが socially awkward 側に倒れている。でも最低限の communication はこなしているせいか、大きく問題視されたことはない。めでた・・・くはないが、最悪の事態は免れた。「コミュ障」じゃなくて「ソシャ障」ってとこか。あるいは「非コミュ」じゃなくて「非ソシャ」。まあ自分に communication の問題がまったくないとは言わないけれど。
濫用されたカタカナのコミュニケーションのうち socializing をしない人。自分は人付き合いが苦手なおたくのステレオタイプが頭に浮かぶ。けれど件の資料に登場したのは小さな子供を持つ親だった。付き合いで飲みに行くより帰って子供の相手をしたい人たち。違う文書の似た文脈ではマイノリティの人種や性別も同じように描かれていた。文化的差異のため話が合わない人たち。
実際おたく的性癖が一大勢力たるエンジニアの世界で先のステレオタイプが不利にはたらくとは考えにくい。マイノリティかどうかは隣接する人々という分布のどこに位置するかで決まるわけだから。
誰であれ socialize しない自由があり、その選択が仕事で不利に働いてはいけない。となると「ソシャ障」や「非ソシャ」と呼ぶのも discrimination になりそう。ナシだな。訂正。
Socializing が職業人生に無関係とは思わない。たとえば networking は socializing の延長だろう。でも別のラベルがつけられて職務範囲から外されると少し気が楽になる。そして socializing を職務と切り離せるのは成熟の証かもしれない。「Cultural fit がない」と付き合いの悪い年寄りを追い出すスタートアップの話は、ときどき紙面をにぎわせている。