プログラマと英語 1: 野良翻訳

プログラマが日本語で翻訳するのがどうとかいう話で盛り上がっているのを見かけた。

自分がそれなりに英語で苦労しているせいもあり、プログラマとしての英語に対する態度については一時期よく考えていた。せっかくなのでなにか書いてみたい。まず英語や言語バリアの話とセットで扱われがちな翻訳について。

色々ある翻訳の中でも、ブログなどの野良翻訳はやらないほうが良いと思う。自分も一時期よくやっていたので心苦しいけれど、その体験からこれはダメだと思うに至った。

ブログの翻訳は、まずブログが本来持っているソーシャルな性質を損ねてしまうのがよくない。ブログをはじめとするウェブのメディアでは対話や関心が通貨だ。何か対話のきっかけになるのが一番嬉しいし、コメントからライクまで様々なフィードバックを見るのも面白い。読まれた手応えが励みになる。翻訳はこの通貨の流れを断ち切ってしまう。書き手の知らない URL に書き手の知らない言葉で並ぶコメントは虚しい。何を言ったところで届かないから。

見方を変えると、ブログの野良翻訳は通貨としての関心を横取りしてしまう。個人的にはこの方が厄介な問題だと思う。

英語のブログを翻訳する方が、同じくらい意味のある日本語の文章を自分でイチから書くよりずっと簡単だ。だからオンラインで関心を集めたければ面白い英語の文章を見つけてきて訳せばいい。プログラマはブログに書いた文章の権利管理にさほど厳しくない。翻訳させてねと頼んで断られたことがない。全文ではなく適当な抜粋を訳したり紹介するだけなら断りもいらないから更に簡単。意地悪な言い方をすれば、テックブログの翻訳/要約は関心のサヤ取りをするまとめサイトに似ている。

この手軽さを考えると、人々の視線を集めるのが主たる目的たるブロガーやオンラインメディアが翻訳、抄訳や要約をするのは、自分の好みをさておくと理にはかなっている。でもプログラマにとってはどうだろう。

プログラマがブログの野良翻訳をはじめるとき、最初の動機にやましいものはないだろう。すごく良い文章に出会った。友人や同僚に読んで欲しい。そんなところだと思う。よろよろと翻訳をして自分のブログなんかにアップロードする。大きな反響がおこる。広く読まれたことに満足する。

ただその満足感や刺激は、ちょっと強すぎる。自分の書いた文書では決して集まることのないであろう大きな関心が集まる。自分の文章でないことはわかっている。でも翻訳というのは、気に入った、感情移入した内容であればあるほど、自分の文章のように思えてしまう。少なくとも日本語にしたのは自分なわけだし、翻訳のプロセスを通じて普通より深く読み込むぶん無意識のうちに文章の中身が内面化される。書き手との一体感。この結びつきのせいで、翻訳にあつまった関心を自分から切り離すのが難しくなる。自分が何かすごいものを書いたような感触が、自覚しないまま心の底に残る。

別の良い文章をみつけ、また翻訳する。反応がおこる。何度かやると翻訳作業のコツがわかり、少ない労力で訳せるようになる。誰かに読ませたいというある種の善意と、人目を引きたいエゴが混ざりはじめる。そもそもこの二つの感情に区別があるのかすら自分には怪しい。「これを訳せばウケる」と考えはじめた自分に気づき戸惑う。自分はどこかに吐き出したい、誰かに伝えたいメッセージがあるから文章を書いていたはずなのに、なぜまた人にウケようとしているのか。

ソーシャルな関心という刺激に対する反応の度合いは個人差があると思う。自分はあまり意思が強い方ではないので、人目を引きたいという誘惑に負けることは多い。多かれ少なかれ人は関心の誘惑に引き寄せられる。ソーシャルメディアの隆盛がそれを示している。そして野良ブログ翻訳/要約作業は、手軽さ、一体感、関心からくる刺激のバランスから極端に強い誘惑を生み出しがちだと思う。この強すぎる効能が野良翻訳に手を染めたプログラマのインセンティブを大きく歪めてしまいはしないか。

関心を集めたいと思うのは必ずしも悪いことではないと自分は考えている。けれどオンラインで暮らすプログラマなら、プログラマやソフトウェア開発者としての経験や成果を通じて何かを語り、プログラマとして世の中に認知された方が良い。人に認められたい気持ちがプログラマとして前にすすむ力になるから。

ブログの野良翻訳に必要な能力はだいぶ違う。ある程度の英語力と、ウェブのメディアから面白そうなものを見つけるインターネット中毒力。あとは翻訳それ自体のスキルも少し。プログラマ読み物の翻訳家になるのがゴールなら、とまではいかなくてもその翻訳業を自分の主要な趣味にしたいなら、どうぞお好きにと思う。でもそれがいくら上手くなったところでプログラマとしての進歩はない。

だからプログラマとして成し遂げたいことがあり、その中で「コミュニティへの貢献」とか「勉強のついで」とかいう理由で翻訳をするなら、やめた方がいいかもしれない。その結果やってくる劇薬的な刺激に気が散りすぎるだろうから。何年も安易な人目引きを続けたせいで、自分はプログラマとしての aspiration を損ねたと感じている。英語やネット中毒力よりはテクニカルな技能や経験を通じてコミュニティに出て行く方がいいよ、たぶんね。

マニュアルや書籍の翻訳はどうか。自分はやったことがないからわからない。それにわざわざやろうとする人に水を差す気も起こらない。本を一冊訳したり更新されつづけるマニュアルの翻訳を保守するのは気楽とは程遠いからね。